その時の想いをその時代の記憶を生まれくる人々のためにことばで繋ごうみんなで創ろう千年続く、こころの物語

宮城県エリア巡礼地

18 閖上漁港と日和山

明治の頃に漁師さんたちが海の状況を見る「日和見」のために山を作ったといわれています。津波の当日も中学生がそこに避難し、流れてきた漁船に飛び乗って五叉路付近まで流れ着いて助かったという話を伺いました。

◇こころのみちの物語「名取海岸林再生プロジェクト」

2011年3月11日の東日本大震災の大津波により、太平洋岸の海岸防災林はなぎ倒され浸水してほとんど消滅した。その被害面積は宮城県内では1750ヘクタール余に達すると云う。

その日名取市の海岸に押し寄せた大津波は海岸林をなぎ倒し仙台空港にまで押し寄せた。仙台空港の近くで農業を営んでいた私の友人は、津波の襲来に気付き慌てて自宅に駆け込んで玄関の戸を閉めた途端に、目の高さまで津波の水が達し一瞬の差で命拾いして2階に駆け上がったそうだ。2階から眺めれば周りは全て濁流に流されて今まで隣近所にあった家もなく、流されて行く家をなすすべもなくただ眺めているだけだったと云う。

海岸林は防風、防潮、飛砂・飛塩防止のために大きな役割を果たしている。特に東北の太平洋岸においては、夏季に「やませ」と呼ばれる冷たい潮風を防いで、後背地にある農業地域を冷害から守り生活を支え、地域の農家にとって大きな恩恵となってきた。約400年前仙台藩主伊達政宗も農業振興のため石巻から山元までの沿岸部に海岸林の造成を命じたとされる。

名取市の海岸林は明治時代に伐採が進み戦時中に荒廃したが、戦後に住民達の植林で再生したと云う。そして農地を守りたいとの先人達の思いを刻み海岸林再生を記念して愛林碑が建てられ、全てを押し流した今度の大津波にも流されずに今もしっかりと立っている。

国内外で農業技術者育成や緑化活動等を展開する東京にある公益財団法人「オイスカ」は、大津波による海岸林の消滅を知るや、直ちに職員を名取市の避難所に派遣し、被災農家の人達に海岸林の再生を働き掛けた。当初意気消沈していた農家の人達の中からその呼びかけに応じたのは少数だったが、やがて「海岸林を再生しよう」という輪が次第に拡がって行った。この中には愛林碑に祖父の名前が記されている人や私の友人もいる。そして2011年5月「名取市海岸林再生の会」を立ち上げた。

今、再生の会に結集した被災地農家の人達は、国や県・市、関係団体の支援協力を得て、「海岸林再生プロジェクト10ヵ年計画」のもと、全国の市民や会社・団体等の支援を得て海岸林100ヘクタールの復活を目指して活動している。毎年10万本のクロマツを植栽し、東京オリンピック開催の2020年までに50万本の育苗・植栽・育林を行う計画である。まず、クロマツの種子を蒔き、3年目の今春、2年がかりで育てて30センチにまで育ったクロマツの苗木を中心に広葉樹を含めて、7万5000本をようやくかつての海岸林の跡地15ヘクタールに植えた。
さらに5月24日には地元市民や県内外のボランティアや林業関係者ら350人がつどい植樹祭を開催し、5000本のクロマツの苗木を植えた。こうして「名取市民の森」造りに向けた一歩を踏み出したが、私もこの植樹祭に参加させてもらった。

植栽地は石ころだらけの粘土質の土であり、植栽した苗木が全て順調に育つ訳ではなく、また苗木が成木に育つまでには30年以上かかり、その間補植・下刈り・つる切り・除伐・施肥等様々な管理を継続して行う必要がある。植栽したクロマツがかつての白砂青松の姿を取り戻し、後背地の農地をしっかりと守るようになるには、今後50年、100年とかかるだろう。だから今植栽している人達はその姿を見ることはない。会員の農家の人も「今は役に立たなくとも、の時代にはしっかり農地を守ってほしい。」と言う。孫の代やその先に立派な海岸林を残したいという気持ちで取り組んでいる海岸林再生プロジェクトは、遥か先を見据えた息の長い活動である。

(一般社団法人東北お遍路プロジェクト理事 浦井雄治)
所在地:名取市閖上